この3月をもって38年間の県職員を定年退職します。昭和60年4月の庄内総合支庁福祉第二課勤務を振り出しに19回の人事異動で職場が変わりました。
事務屋(行政職)ですので県民サービスの向上という基本は同じですが、「郷に入れば郷に従え」で職場の雰囲気も違い戸惑うことも多かったが、職場のすばらしい先輩や上司に恵まれ3月31日を迎えられることが何よりです。(31日の12時まで油断禁物)
最後の職場となった「こころの医療センター」では、病院勤務も初めてで最後まで分からないことが多く、初歩的な質問の繰り返しで関係者の皆様にはご迷惑をおかけいたしましたことをお詫びいたします。
以下、しょぼい、一人の県職員の思い出を書き連ねさせていただきます。
<「ここセン」での思い出>
・事務局長室では一人の時はマスクも鼻出しで呼吸が楽で良かった。
(看護師やドクターの皆さんのN95マスク着用には只々敬服でした)
ひとり部屋では、脚がうっ血してくると丸椅子に足を延ばしたり、眠気を催すことも多かったのでガムを噛んだり煎餅をかじったり、おかげで成人病数値が危機ラインを超えてしまいました。(行儀の悪い職員でごめんなさい。)
・栄養給食の月の御膳(検食)では栄養士さんと調理師さんが企画から調理まで腕によりをかけた食事をご馳走になりました。病院食とは思えない手の込んだメニューは間違いなく「ここセン」の自慢のひとつでしょう。(長期入院の要因になっては困りますが・・)
・季節の良い日には鳥海山、月山の雄姿を望めながらのお昼の散歩や夕暮れ時の砂丘地西山に沈む大きな夕陽が感動でした。
・春先や秋のさわやかな空気の下、事務局長室窓から見える空の青さにも感動
(空を眺めて退院を待ち焦がれている入院患者さんの気持ちも思うと切ない気分にも・・・)
<その他昔の思い出>
・新採配属のケースワーカー時代には温海の山奥で何度も雪道で脱輪事故を起こした。(訪問看護の皆さんのご苦労がわかります)
・平成の初めころは4週6休で土曜半ドンの時代があり、午後は上司や同僚と将棋に興じていた悠長な時代でした。(今ではさっさと帰って妻の育児を手伝えと怒られます)
・管財課庁舎管理では水漏れ補修のため知事も使う秘書課の男子トイレの小便器をもってうろうろ・・(汚いなんて思う余裕もなく)
・今は無き知事公館が一般公開された時には立会い警備の時に調度品が紛失(盗難?)し警察から事情聴取のハメ(処分はされず良かった。)
・職員アパート担当時には上階の汚水が下の階の空室トイレから汚水が噴き出した現場に遭遇しビックリポン
・土地改良事務所の移転統合では引越し業務が大変で、近くの日和山公園をお昼時、毎日散歩(気分が滅入ると俺はいつも散歩でした)
・企画振興課で離島(飛島)振興計画づくり(飛島では誰にも邪魔されない自分だけの時間と豊かな自然を満喫できます)
・支庁長のかばん持ちで全日空へ手土産のラフランス10Kを両手に持った時の重かったこと。 (企画業務は使い者にならず1年で首)
・建設総務課では厳冬期の特休いなほの脱線転覆事故関連で「庄内大橋」を車両搬出用のトレーラーが無事通過するのを橋の上から確認。(橋が重みで崩れなくて良かった。)
・県庁交通政策課で単身赴任の時には、娘から摂食障害で入院(S病院)の電話を受け辛かった。(その後娘は元気になり就職・結婚)
・環境課では捕獲用タモを振り回しながら野鳥救護と称して怪我したハクチョウを追いかけた?が生来不器用で一度も捕獲できなかった。(何しったんだろう俺は!)
・海の漂着ゴミ担当では北の女鹿から南の鼠ヶ関まで海岸調査(毎年のように注射針や座礁船舶からの材木漂着等が問題に)
・防災安全室時代の災害対応(熊本地震で救援物資の搬送や台風などの荒天時に明け方まで庁舎内に待機)
・鶴岡工業高校事務部では3kmマラソン?に飛び入り参加したが、女性職員にも抜き去られ恥ずかしかった。
卒業式の「祝辞」紹介を間違って「弔辞」と言ったとか。(全く記憶になく信じられないが・・・)
鶴工には定時制があり意見発表会や様々なイベントでは生徒の苦難を乗り越えた成長に涙の感動
などなど何事にも代えがたい多くの貴重な経験をさせていただきました。
最後に
だれもが容易に精神を病む時代において、自分はどこまで偏見・差別なく人と接していけるようになったのか心もとない気もしますがこの1年間で多くのことを学ばせていただきました。
こんな体たらくな事務局長が去り、4月からは優秀な局長が着任するはずですのでご安心を。
今後の「ここセン」とスタッフの皆様方のご多幸と活躍を祈念しながら「老兵は死なずただ去り行くのみ」です。